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2009年5月

無題

清志郎さんの容体が急変したのは1日。すぐに都内の病院に入院したが、そのまま帰らぬ人となった。都内の自宅では深夜まで関係者らが出入りし家族は遺体のそばで悲しみにくれていた。

 08年7月に2度目の活動休止に入って以降も体調は良く、レコーディング作業中の食事もとんかつ定食をたいらげるなど元気だった。それだけにショックは大きく、関係者は「あまりに突然で…。きょうは言葉にならない」と涙を流すばかりだった。

 06年7月に医師に喉頭がんを宣告されてから3年近くの闘病生活。苦しかったはずだが「これも人生経験。この新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念したい」と言い、前向きにがんと闘ってきた。

 初期の喉頭がんだったこともあり、声帯を痛める可能性がある切開手術をせずに、放射線治療を含めた治療法を選択。歌い続けることにこだわって、病魔と闘ってきた。がんが腰に転移したときも「妙に前向きになるのはなぜだろう。心配はしないでくれ。このくらいのことは覚悟してた」と周囲に話していた。

 08年2月に東京・日本武道館で行ったライブ「忌野清志郎 完全復活祭」では、最後に2人の子供(当時19、16歳)がステージに上がり、目を潤ませた。ファンへは「応援してくれたすべての人に感謝です。勇気を与えてくれてありがとう!」と何度も感謝した。最後のライブは腰へのがん転移が分かる直前の同年7月6日に東京・高田馬場で行ったファンクラブライブだった。

 どぎついメークととっぴなトーク。大胆かつ繊細な作風で若者の心をとらえた。それらは時にはひわいな言葉でもあり、当初から放送禁止を覚悟していた。

 常に弱者へのいたわりも忘れなかった。上司に給料を上げてもらえず「やる気がしねえ…」と仕事をサボる様子を歌った「ボスしけてるぜ」などがその代表。社会の辛酸をなめる人へのサポートソングだった。反原発などメッセージを込めた曲もあった。「放射能はいらねえ 牛乳を飲みてえ」と叫ぶように歌い、対立したレコード会社を「東の芝の~」とおちょくったりもした。

 晩年は東京から鹿児島まで自転車で走破するなど、いつも世間に刺激を与えてきた。ラストになってしまった昨年11月のステージでも「愛し合ってるか~い」と何度も絶叫。客席に向かって最後に発した言葉は、決めぜりふの「ご機嫌だぜぇ~」だった。

 忌野 清志郎(いまわの・きよしろう) 1951年(昭26)4月2日生まれ、東京都出身。都立日野高校在学中の66年に同級生の小林和生らとバンドを結成し、70年、RCサクセションとして「宝くじは買わない」でデビュー。82年、坂本龍一と組んだ資生堂のキャンペーンソング「い・け・な・いルージュマジック」がヒット。91年にグループとしての活動休止。俳優としても活動し、ドラマ「ボクの就職」(94年、TBS)、「野ブタ。をプロデュース」(05年、日本テレビ)や映画「妖怪大戦争」(05年)などに出演。

午後6時からの通夜。仲井戸と井上のほか、高校時代からの親友で俳優の三浦友和(57)、82年に「い・け・な・いルージュマジック」を共作してNo・1ヒットさせた坂本龍一(57)、学生時代からのファンで30年近い友人の俳優竹中直人(53)が訪れた。

 最期をみとった仲井戸は憔悴(しょうすい)しきった様子。竹中はハンカチで涙をぬぐうのが精いっぱい。無名時代からの旧友で70年代初めに寝台列車を乗り継ぎ一緒に全国をまわった陽水は、悲しみに暮れる景子夫人と長男の竜平さん(20)と長女の百世さん(17)に言葉を掛けた。

 無宗教の献花形式。突然の他界で「本人が残した言葉はない」(関係者)ものの、望んだであろう送り方を家族がくんだ。遺影は2年前に家族や友人と集まった時のもので、照れ屋な素顔を象徴するはにかんでいる写真。派手なメークで知られたロックスターの顔ではなく“良きパパ”の顔が飾られた。

 お経はなく、喉頭(こうとう)がん公表直後に発表したアルバム「夢助」の曲が流れる中での献花。関係者は「葬儀はデビュー時からの歌をたっぷりと流して送ることになると思います」と明言。「スローバラード」「雨あがりの夜空に」など15曲以上が流れる異例の“ロック葬”だ。

 体調不良で入院したのが2週間ほど前。容体が急変したのは1日午後だった。血圧が急激に下がり意識が混濁。眠った状態のまま静かに息を引き取った。みんなで「眠ってるだけだからもうすぐ起きるよ」と言いながら、最後まで再起を信じていたという。

 都内の自宅に戻った遺体は洋室の居間で布団に寝かせられた。一夜明けたこの日も眠っているような姿に家族らが「起きなさいよ」と声を掛けるなど「まだ誰も亡くなったことを信じられない」(関係者)状態だった。9日に東京・青山葬儀所で一般弔問を受け付ける告別式が行われる。

竹馬の友が旅立った。三浦は午後7時20分ごろ、沈痛な面持ちで通夜会場に到着。式場内で約20分間、親友に別れを告げた。車で会場を後にする際にも、口を真一文字に閉じ、号泣したためなのか目をしばたたかせた。表情は疲れ切っていた。

 日中は悲しみをこらえ都内でCM撮影。死去当日の2日も、都内でCMを撮影しており、終了後にスタッフから訃報を聞かされ絶句。気が動転し報道各社からの問い合わせに応じられる状況ではなかった。悲しみが癒えるはずはないが、一夜明けて、所属事務所を通じ心情を公表した。

 「彼は高校の同級生でありながら、尊敬し、またあこがれのミュージシャンでもありました。その思いは、いまでも変わりません。残念です。冥福を祈るばかりです」

 残念です…の一語に、無念の思いが込められていた。

 東京都日野市の都立日野高校の同級生。お互い別々のバンドだったが音楽活動をする仲間だった。三浦はかつて本紙の取材に「清志郎くんのバンドは高校3年の後半にレコードデビューして、僕たちは彼らに何となく付きまとっていた」と楽しそうに話していた。闘病の報告も受けており、「よく電話でやりとりをしている」と語っていた。

 芸能界に進んだ後も親交は続いた。清志郎さんは絵画、自身は陶磁器などを出品していた「都立日野高校OB展」を、毎年のように一緒に訪問。清志郎さんの72年の初ヒット曲「ぼくの好きな先生」のモデルとなった恩師・小林晴雄元教諭(77)を交え、昔話に花を咲かせながら会場を回った。

 今年1月下旬に東京都国立市のギャラリーで開かれた同展覧会が最後の対面。清志郎さんは天国へ向かったが、三浦にとっては「尊敬」と「あこがれ」の親友として、永遠の存在だ。

泉谷しげるにとって忌野清志郎さんは盟友でありライバルであり、師匠。「あいつには似合わない。全く信じがたい。絶対受け止めたくないし、通夜にも告別式にも行かない。冥福も祈らない。おれの中で忌野清志郎は永遠です」。かたくなに現実を受け止めない姿に大きなショックを感じさせた。

 この日、都内で動画配信サイト「コラコラ放送局!」の発表会を実施。だが登場するなり、自ら清志郎さんの話題に及んだ。出会いは71年。当時、アマチュアだった泉谷はRCサクセションのファンで、東京・渋谷にあったライブ喫茶を頻繁に訪れていた。「何度も見に行くうちに、あいつがオレをステージに上げてくれてね。それでいつの間にか一緒にやってた」。泉谷は同年にデビュー。客を「バカヤロー」とののしるスタイルは当時の清志郎さんの影響だった。「新鮮でね。もらっちゃったよ」。

 タブーに臆することなく過激な言動が話題になることが多かった清志郎さん。「オレはそういうことをしてほしくなくてね。いい曲があるんだから普遍的なものを目指してほしかった」。こう注文を付ければ清志郎さんも譲らず、何度もケンカをした。

 連絡は3、4年取っていなかった。「急に連絡が取れなくなった。あいつ体が悪くなって、あいつなりに気を使ったのかもしれない」。それでも仲井戸らと連絡を取り、清志郎さんの様態が急変したことは知っていた。02年には清志郎さんとバンド「スパイスマーケット」を組んで活動。「かんおけの中から引っ張り出して、また(音楽を)やらせます」と話したが、その声は弱々しかった。

忌野清志郎さんの通夜には、RCサクセションの72年の初のヒット曲「ぼくの好きな先生」のモデルになった恩師の小林晴雄元教諭(77)も訪れた。都立日野高校3年生の時の担任で美術教諭。闘病中の07年に清志郎さんが三浦友和と「日野高校OB展」を訪れた際に会っており、今年1月の同展でも対面。「人が来ない日時を選んで来たので、彼なりに死期を悟っていたのか。でもその時に“かなり回復しています”と言っていたので(再起を)信じていたのですが」と早すぎる死を悼んだうえで「穏やかな顔でした。よく頑張った。ゆっくり休んでほしい」と話した。

忌野清志郎さんが71年からしばらく所属していた「ホリプロ」の先輩、和田アキ子(59)は3日、司会を務めるTBS「アッコにおまかせ!」で追悼した。清志郎さんの曲「スローバラード」「雨あがりの夜空に」をカバーし、アルバムに収録したこともあり「本当にロックな人でした。涙が出てきそう」と表情を曇らせた。清志郎さんが自転車に乗っている映像が映し出されると「そういえば“自転車取られた”言うてたなあ」と懐かしむように話した。

間寛平が忌野清志郎さんの訃報を知ったのは米現地時間2日(日本時間3日)。「アースマラソン」の走行中、アメリカのカンザス州に入ったところで、光代夫人からの電話で聞いたという。

 あまりに早すぎる死に「1日走りながらも、涙が止まりませんでした」と悲しみの胸中を告白。「清志郎さんは、僕みたいなお笑いの人間にも、友達のように本当によくしてくれた素晴らしい方でした」と故人をしのんだ。

 さらに「この地球1周の挑戦が無事に成功した時に、本当に恩返しをしたかった方の1人でした。清志郎さんには本当にお世話になりました。もう直接恩返しができなくなってしまったことは非常に残念です」と、やるせなさをにじませた。

 寛平がマラソン中に聴いているのは、清志郎さんが昨年12月に提供した応援ソング「RUN寛平RUN」。日々、耳元から届く“エール”を胸に、「今は頑張って走り続け、この挑戦を成功させることが清志郎さんへの恩返しになると思っています」ときっぱり。「あすも清志郎さんに頂いた応援歌を聴きながら走ります」と悲しみをこらえ前を向いた。

 知り合ったのは2000年ごろ。寛平が01年7月にリリースしたアルバム「ジャングル野郎」に清志郎さんが楽曲を提供したことで縁が深まり、同年には清志郎さんのライブに寛平が飛び入りしたこともあった。清志郎さんが、闘病中にもかかわらず応援歌を提供したのも「親友のために」という思いからだった。

 「本当に清志郎さんにはお世話になりました。心からご冥福をお祈り申し上げます」と結んだ寛平。前人未到の「地球1周マラソン完走」という偉業を清志郎さんの墓前に報告するためにも、これからも走り続ける。

忌野清志郎さんの友人の「THE ALFEE」の坂崎幸之助(55)が、清志郎さんが死去した2日に、父の坂崎幸太郎さんを亡くしていた。マスコミ各社に送った追悼コメントで明かした。

 関係者によると、幸太郎さんは2日午後11時ごろ、がんのため都内の病院で死去。85歳だった。坂崎は幸太郎さんの死去の知らせを受けた直後、携帯メールに清志郎さんの訃報のニュースが入ったといい「この日は僕にとって、とても大切な人を2人同時に亡くしてしまった、生涯忘れない日になりました」と落胆。大きなショックを受けているようだが「清志郎さんが残してくれた素晴らしい楽曲という宝物を、これからもみんなで歌い継いで行ければ」とコメントを寄せた。

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本当だよね、泉谷さん

Yahooニュースより。

僕も泉谷さんと同じ気持ちです、信じられない、信じたくない(悲)

俳優でシンガー・ソングライターの泉谷しげるが3日、都内で動画サイト『泉谷しげるのコラコラ放送局』の開局を記念した記者会見に出席。2日にがん性リンパ管症のため58歳で死去した盟友・忌野清志郎さんについて自ら切り出した泉谷は「恩返ししてないのに先に逝くんじゃねー!」と事実を受け止められない心情を露にしつつ「ふざけんなこのヤローですね。俺としては好敵手を失いたくない」と沈痛な思いをのぞかせた。


 忌野さんの突然の訃報に約40年の付き合いという泉谷も動揺を隠せない。「あいつの死は受け止められない。似合わないでしょ? 僕の中では永遠だし、死なせません」と現実に背を向けた泉谷は「あいつがいて俺が出れた、というぐらいに世話になった。年下だけど、尊敬してて、師匠のようだった」と忌野さんを“天才”と評した。

 また、通夜や告別式には「行かない」とした泉谷は、「後日、会いに行きます。お線香はあげない。俺としては好敵手を失いたくない。勝てないんだけどさ、でも強い奴にぶつかっていくのが元気の源だから、責任とってもらわないと。棺桶から出してやりますよ」とぶつけようのない悲しい怒りを口にした。

 泉谷は、時折神妙な面持ちをみせながら「(吉田)拓郎も含めて、具合悪くてよ。自己管理しろとは言わないけど、なに具合悪くなってんだバカヤローと言いたいよ」と声を荒げる場面も。だが「やっぱアイツらがいなくなると寂しいし、ガッカリする」と本音も垣間見せ「(忌野さんからは)4年くらい前から連絡が来なくなった。留守電入れても返さなくなった。裏で(病気を)聞いたけど、気遣ったのかなって思う。だって、俺に言うとバーッと言っちゃうからな」と、どこか寂しげな表情をうかがわせていた。

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忌野清志郎

Yahooニュースより・・、

 「ベイベー!」や「愛し合ってるかーい!」などの決めぜりふ、奇抜な衣装と演出で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。喪主は妻の栗原景子(くりはら・けいこ)さん。

 東京生まれ。68年に中学校の同級生らと、忌野さんをリーダーとするバンド「RCサクセション」を結成、70年に「宝くじは買わない」でデビューした。72年には「ぼくの好きな先生」が、80年には「雨あがりの夜空に」が大ヒット。82年には坂本龍一さんと組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」が社会現象を巻き起こし、日本の「ロックの神様」としてコンサートのほか、CMや映画などで活躍した。

 一方、「音楽は時代の刺激剤であるべきだ」との信念を持ち、政治的なメッセージを込めた歌も歌った。そのため、反原発を扱ったアルバム「COVERS」やパンクロック風にアレンジした「君が代」が入ったアルバム「冬の十字架」が一時、発売中止になったり、コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌って、FM中継が中断したこともあった。

 06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。

 ◇自分の道を貫いた

 ▽音楽評論家、田家秀樹さんの話 日本のロックバンドと日本語のロックの原形をつくった人だった。忌野さんがリーダーだったRCサクセションは、黒人音楽と日本語を初めて結びつけ、またビジュアル系の元祖でもあった。反原発の曲をつくるなど、ロックが反骨であると証明し続けた。妥協もこびることもなく、音楽一筋を貫き通したと言える。死は早すぎた。

 ◇聞く者に力与えた

 ▽音楽評論家、天辰保文さんの話 清志郎さんの根底には黒人音楽への敬意があり、それをエンターテインメントの形で日本に定着させた功績は大きい。権威への反逆も一貫していたが、それをユーモアにくるみ、さりげなく表現していた。実はシャイな人だったと思う。彼の音楽には「彼は常に信頼できる人であり、自分もしっかりしなければ」と、聞く者に思わせる力があった。

今日も歌います↓

http://www.youtube.com/watch?v=xurggFBiCH0

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追悼

清志郎さんが死んだ・・、

喉頭がん治療で、歌えなくなるくらいなら、死んだほうがまし、

喉を切らずに治療するって。で、復活したのにsweat02

でも、腰のリンパに転移してた、

でも、必ず帰ってくると思ってた。

でも、今日、死んだ。

僕は朝からなぜか清志郎さんの歌をずっと歌ってた。

とても難しい、スローバラードをずっとギター弾きながら歌った。

いつもは失敗するのに、今日は上手くいった。

必ず帰って来るっていったじゃん・・、

清志郎のバカ。

清志郎、永遠に、追悼。

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